昭和42年01月15日 朝の御理解
我情我欲を離れて、真の道を開き見る、我が身は神徳の中に生かされてある。我情我欲を離れて、真の大道を開き見るという事は、どう云う事であろうか。我が身は、神徳の中に生かされてあるという実感の中に、日々生活さして頂く事が、人間の一番の幸せである、と同時に信仰の目指しというのは、そこにあるのじゃないだろうかと。神様のお恵の中に、生かされて生きておるのだと。
成る程御神徳の中に生かされておるんだなあという、その喜びを感じさせて頂けれる程の、おかげを頂ながらそのおかげの中に、生活さして頂くという生活が真の信心生活だと私は思うのです。それならばどういう様な事だろうかと。今朝御神前に出らして頂ましたらこう手をこうして御座いましてですね、この真中のこの中高指ですね是をサーッともう丸きりこの指が天に続いておると云った様な感じでスーッと頂くんですね。
そしてこの人指しでもなかなきゃ、この薬指でもないこの3本の指を今度は、頂くんですね。これがいわゆる我情我欲を離れて真の道を開き見る、わが身は神徳の中に生かされてあるという、そう云う信心の醍醐味とでも申しましょうかね。そう云うその喜びを浸らして頂けれるおかげを頂く為には、こういう信心が必要だという事。これを素直に神様に向かっておる真ん中の中心が。人でもない薬でもないそう云う感じですね。
そこでそこんところを、どういう風に頂かしてもらうかと。昨日昨夜の御祈念に、久留米からいつも夫婦で参って見える方があります。最近ご主人がお謡をやって居ります。それで奥さんが人に勧められて、仕舞をやらんかというて勧められておられる、非常にその娘さん時代からああ云う芸事が好きなんです、奥さんはそれで云われたから幸い主人もそうした謡をやっているし、自分も好きではあるし、御神意を頂いてからお許しを頂いたならば、やろうというので、夫婦も話は決まった。
夕べ、参って見えたんですよね。で私はその、これはもう、御神意を伺う事もいらん、もうすぐ答えは出てくる。だから、その方達が、もう一家をあげて、ご造営の事に、一生懸命打ち込んでる。もう子供達にいたるまでが、そうなんですね。この頃、里に帰ってから、子供をほうからかしてから、お母さん帰る、寝ちゃる、帰ったその一番下の息子がまだ、いま幾つでしようか、4つか5つですもん。
なにかえらい気張って泣きよるげなもん。そいけんもうあんたどうして泣きよるねて云うた所が、その姉ちゃん達のつにはお年玉のお金が、貯金箱に入っとったらしいんです。所がその僕のに入ってなかったんですね。僕のその正月のお年玉は、全部御造営費にするて何が何やら判らん5つの子供ですから。けども一家中の者が寄ると触ると、ご造営の話をしとるもんですから、僕もご造営費のおかげを頂きたいち云う訳です。
それでそのお年玉を全部御造営費にしようと思いよるばってん、そのパパもママもお婆ちゃんも、お爺ちゃんも、お年玉を僕に呉れんから、ご造営費がたまらんて云って泣きよったち、と云うほどにです。一家をあげてのその御造営に焦点をおいておる家族の者ですから。私がもう答えはいらん。答えはもう出ておる、とこう私が思うたんですよ。これが例えば、ときたま参って来て。
椛目もあんな立派な御造営がありよると、まあうちも一丁御造営費でもお供えさして貰うてからと、まあ云う程度の事ならですね。私は恐らくそれは主人も丁度、そしてお謡を習いござるとじゃから、それが良かろうと私がお取次ぎさして頂いたかも知れません。けれども、もう一家をあげて只今云う様に御造営の事に焦点を置いておられる方でございますから、私はその中心を考えたんです。人でもなからなければ、薬でもない薬指でもないこの真中の中心が、神様に向かっておらなければならないとこう思うた。
そうなぁそれはその、どういう風に頂いたら良かろうかと。私はあなた方が御造営なら御造営という事にでも、その関心が薄いのならね、私はすぐその事をお許し頂いて、お取次ぎさして貰うんだけれど、それがあんた方がそれだけ熱心な信心をしておらるのだから、ここんところはどんなもんだろうかねぇ、すぐ答えが出るのじゃないだろうか。先生もうそれは云うて頂かんと腹が決まりませんて云う訳なんです。
答え出さんなり、すぐここで答えが出た訳です。皆さんだってすぐ答えが出るでしょうね。私はこの我情我欲を離れてと云う事は、大変難しゅういや難しいんですけれども、それだとこう思うんですよ。我情我欲を離れて、真の大道を開き見る、我が身は神徳の中に生かされてある、と云う事はです。丁度、3本の指をです、この中の高高指が、真っ直ぐに天に向かって貫くのじゃなかろうかと云う様な勢いで。
この中の指が伸びておる様な感じ、そして、この人差指の、この人でもなからなければ薬でもない、と、あれにも頼らん、これにも頼らん、ただ真っ直ぐに、この中心が天に向かって、伸びておるという、この生き方こそがです。私は、我情我欲を離れた姿ではなかろうかと。我が身が神徳の中に生かされてあるという喜びを謳歌する為の、おかげの受けられる為の信心とは、そう云う信心じゃろうか。
ところが、私どもでは、やはりそれがその我情があり、我欲があり。自分では判っておる様であるけれども、答えがなかなか出てこないから、お取次ぎを頂くという事になった。そうなあ、あんたのところは、御造営一家でないならば、私は、そりゃすぐああたが仕舞を習われる様に、お繰り合わせを願おうけれど、あなた方一家がそう云う事だから。神様の願いと云うものを、中心にすると云う事なのだ。
本当の事を中心にすると云う事なんだ、尊いものを中心にすると云う事なんだ。自分の思いを捨てておるからすぐ答えが出てくる。はあ今時仕舞でも習う時期じゃないと云う答えが出てきた。先生お取次ぎ頂かなければそこが判らない、私が右にせよ左にせよと云うた訳ではないのだけれども、そこにそう云う答えがすぐに出てきた。私はその我情我欲を離れてという様な事はです、教えと云うものがすぐそこに出て参ります。
出て来てもどうもはっきりせん時に、お取次ぎを頂くところからです。そっからはっきりした答えが出てくるその生き方を真っ直ぐに、私は貫いて行くと云う事が我情我欲を離れた信心生活だという風に思うんです。これ見やすう云うてです。神様はどういう願いを持っておいでられるだろうか。そういう考え方を中心にする事なんです。先日から久保山先生の告別式のあれをしてその2.3日致しましてからでした。
子供たちが揃うてお礼に出て参りましてから、今度のおかげを頂きまして告別式にはこれだけ、広大なおかげを頂きまして、それこそ日頃蒔いておる種がこう云う時にはっきり現れて来るのです。こういう広大なおかげを頂いておりますと、そこでそれを御造営費の一端に御用に使わして頂きたいという願いであった。これなんかどう云う事かとね、いわゆる一番これは間違いのないもの。
神様の心を心としたもの、尊いものを中心にしたもの、お父さんが何を願い何を思うて居られたかと云う事をです。考えたら、すぐ答えが出て来た訳なんです。御霊様が一番喜ばれる事は、こうする事以外にないのだと。これなんかが、我情我欲を離れた姿だと、すぐ答えが出て来る。日頃御教えを頂いておりますとです。そこんところが、すぐ判るんです。して見ると、私は、我情我欲を離れて、という様な事は、大変難しい事の様であるけれども、自分の思いを捨て、自分の欲を捨てるという事。
私は、そういう考え方が、臨機応変それがでけて行くおかげを頂かなければならない。それでも、今も、久留米から参って来る、その方の様にです。その思わんでもないけれどもです、主人が謡をやっておるから、それに合うて自分も、仕舞の稽古をしたいと、たいした金額のかかる事でもない。そんなら、御神意を頂いてから、それを決め様と。夫婦揃うて出てきた。
でそこが例えば、その信心の程度の低い所ならば、それはお繰り合わせを頂いてから、おかげ頂きなさいと、私は言う所だけれども。一家をあげていわゆる御造営一家なのですから。そうなそれはどれどう云う事が本当じゃろうかなと、あなたの処が御造営一家じゃないならば、そりゃ私はすぐお取次ぎさして頂くけれどもねと、それはたとえば御造営成就の暁にでも、遅くはない事なのだもんね。そこに答えがすぐ出て来る。
はあ先生判りました、もうお取次ぎ頂かないと腹が決まりませんと。もうお父さんな、そういう風に致しましょう、私もだいたいそう思いよったけれども、と云うてここでそうした話合いが出来る。そういう生き方を、私は我情我欲を離れた姿であり、真の大道を開き見らして貰い、我が身は神徳の中に生かされてある様な、喜びを感じさして頂けれる信心とは、そういう信心だ、と、私は思う。
私どもの、日常信心生活の中にです、そう云う事は沢山ございます。そう云う時にどうぞ、私が今朝ご心眼頂きました様に、この中心がいつも神様へ向いておらなければならない、尊いものを中心にしなければならない。自分の思い、自分の考え、それを捨てる事が、我情を捨てる事なのだと。自分がこうありたいと云う願いを捨てる事が、自分の我欲を捨てる事なんだと。そして神様は御霊様はと、その願いを思うた時に。
すぐ答えが出て来る生き方が、この中高指が、真直に天に向かって貫く様な勢いで、今日私に心眼で見せて下さった、それだとこう思うんです。皆さんそういう生き方になりませんとですね、我身は神徳の中に生かされてあるというです、信心最高のおかげの世界に住む事が出来んのです。お取次ぎを頂いて、自分の思う様にお願いをする。おかげを頂いた、おかげを頂かなかったと云う様なところにして居ったんでは。もう一事が万事にそう云う様な生き方をですね。
私どもが、求め、求めさして頂いてから、そこんところを本当のものにしていく。大変それは、信心させて頂く者の、まあ理想ではあろうけれど。私達には、手が届かない様な御教えだという風に感じられがちな御教えなのです。 けれども、私は、もう身近なところにです。すぐ例えば、人でもなからなければ、薬でもない、いわゆるこの薬指でもなからなければ、人さし指でもない、真ん中のこの指を、いよいよ伸ばして行くと云う事が、その御教えに添うて行く生き方である、という事を感じるんです。
信心さして頂く者の稽古の焦点というものがです、自分という者を焦点、自分の家を云うものが中心ではなくてです。どこまでも、尊いもの、そこに神様の心を心としてと、お広前を中心にしてとかと云う考え方で、私は、日常生活さして頂くという事にです。腹が決まらして頂くところから、確かに成る程、神様のおかげの中にあるんだなという、神徳の中に生かされてある喜びを判らして貰える、いわゆる、おかげが頂けると思うですね。 どうぞ。